今回は、沖縄村の文化体験について紹介します。
ロクロ教室
沖縄の土「赤土粘土」を使った湯のみや茶碗などを作る体験が出来る。
3Dハブショー
大迫力の立体映像で見る、沖縄ヘビとマングースの決闘ショー!飛び出す映像やハブvsマングースのリアル対決に大興奮間違いなし。
そして沖縄ハブとマングースの生態を解説しながら行う、ハブの攻撃能力実演も見逃せない!また、ヘビとマングースを観察できるコーナーもあり!!
マングースとは・・・
ネズミ駆除目的として西インド諸島やハワイ、フィジーなど世界各地に移入されたが、これらの地域で農業被害や在来種の捕食が相次いだ。日本では、1910年にハブ駆除を目的に沖縄本島那覇市周辺に1910年に導入され、1945年には名護市付近まで分布を広げている。
マングースによって、沖縄本島では前回の地理の項目で紹介したヤンバルクイナや、アカヒゲ、ケナガネズミといった固有種や絶滅危惧種の生息が脅かされている。そのため、2001年から環境所では山原(やんばる)地区で希少野生生物の保護のために本種の駆除を始めた。
製糖工場見学
沖縄は黒糖が有名です。その黒糖の原料はサトウキビである。沖縄に行くとサトウキビ畑を多く見ることができる。ここではサトウキビを製糖するところを見る事ができます。
サトウキビの作型は春に植えてその年の冬に収穫する春植え栽培と夏に植えて翌年の冬に収穫する夏植え栽培、そして収穫後の地下株から再び出る芽から栽培し収穫する株出し栽培がある。栽培には十分な日照と豊富な水源が必要である。サトウキビが成長すると茎は3mになる。
収穫の時は、まず葉を切り落とす。その後、茎を地上近くで切り、倒れた茎を束にして運び出す。
前回は、呉にある大和ミュージアムと呉海上自衛隊資料館へ行ったところまで紹介した。今回は、その続きから。
8月4日(3日目)は、尾道へ。尾道へは瀬戸内海の美しい風景を見に行く目的で行ったが、尾道から船で5~6分のところにある向島(むかいしま)へ渡った。NHKで毎週金曜日の20時から放送されている「鶴瓶の家族に乾杯」で紹介されたパン屋さんを見つけ、店に入ることに。パン屋さんのおばちゃんに平和学習をしに東京から広島へ来ていると話すとパン屋のおばちゃんが「戦時中、向島に捕虜収容所があったのよ」という話や向島の戦時中の話を聞くことができた。パン屋のおばちゃんに向島捕虜収容所跡地の場所を教えてもらい行ってみることに。
向島捕虜収容所跡地へ行ってみると当時の建物と碑があった。戦時中、日本軍は東南アジア各地から多数の戦争捕虜を日本へ移送し、捕虜収容所に約3万6千人を収監して鉱山、炭鉱、工場などで労働にあたらせた。国内に91か所に開設された捕虜収容所の一つである向島捕虜収容所は1942年11月に開設され、イギリス軍捕虜100人がインドネシアから移送され、そのうち病気などで23人が亡くなった。1944年9月にはアメリカ軍捕虜116人がフィリピンから移送される。終戦後解放まで捕虜たちは造船所で資材運搬などに従事されていた。1945年9月に捕虜193人が解放された。
まさか、瀬戸内海の静かな島に戦時中、捕虜収容所があったという事が信じられなかった。
8月6日 (5日目)は、66年前に一つの爆弾が落とされ広島の町が一瞬にして破壊された日。この日は、前日の8月5日にみんなが東京へ帰ったという事もあり一人で行動。早朝の山陽本線の初電で広島のみで活躍している機関車を撮影していたために、平和記念式典には途中から見に行った。路面電車で平和記念公園を向かい、ちょうど66年前にアメリカ軍によって原爆が落とされた時刻である8時15分に原爆ドーム前に到着。原爆ドーム前には、臨時で駅員が滞在していた。駅員さんも原爆が落とされた時刻に黙祷をしていた。路面電車もその時刻になると電停に停車していなくても電車を停車させ、車内に乗っている人、全員で黙祷をするようだ。
路面電車を降り、平和記念公園へ。平和祈念式典が行われている会場まで行くのに、原発廃止を要求する署名のお願いをされた。多くの人をかき分け、やっと会場に着くことができた。ちょうど、会場に着いた時に広島市の小学6年生の子供による「平和の誓い」を誓っているところだった。菅総理大臣(当時)のあいさつ、国連の大使のあいさつを聞き、平和公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ。ここには、平和祈念・死没者追悼空間と原爆によって亡くなられた方に遺影を見ることができた。平和祈念・死没者追悼空間には、爆心地からの被爆後の街並みが1945(昭和20)年末までの死没者約14万人と同じ枚数のタイルを使いパノラマで表現され、中央には水盤があり原爆投下時刻である「8時15分」を表し、水を求めて亡くなった方を追悼するために捧げられていた。原爆で亡くなられた方々の一人一人の遺影を見ていると原爆によって一瞬で尊い命が奪われてしまったという事実を改めて知り、今一度、平和について考える事が出来た。
前編で書いたとおり、広島の路面電車には66年前に原爆によって被爆した車両が今でも、2編成が広島市内を元気よく走っている。たまたま、66年前に被爆してしまった路面電車の火力発電所がいまでも、変電所として使われているので見に行った。広島には、鉄道関連の施設で路面電車の変電所の他にJR貨物広島車両所の車両修理工場に被爆した鉄骨が残っていて、いまでも工場の屋根を支えている。10月に車両所の公開があるので、広島へ行き、見に行く予定。変電所を見た後、路面電車に乗ろうと思うと被爆電車が電停に入線してきたので、被爆電車に乗ることにした。被爆電車に乗ると床は木張りで窓枠も木製で、車内やモーターなどにとても味があって、その味を楽しんでいるとあっという間に終点に。折り返しで原爆ドーム前のほうへ行くという事だったので、被爆電車に乗り、原爆ドーム前へ。今年は東京電力福島第一原子力発電所の事があり、原爆ドームまで行く間、原発の廃止に関するデモ行進を多く見ることができた。東京に帰って被爆電車について調べてみると被爆電車を修学旅行で借り切り、被爆者の体験を聞かせる学校もあるそうだ。
原爆ドーム前に着くと、平和を願って絵を描いたり、歌を歌ったり、紙芝居をしている光景を見ることができた。
夕方になると、原爆ドーム前ではとうろう流しが行われ、「とうろう流し」を見に大勢の人が見に来ていた。昭和23年に親族や知人を原爆で失った遺族や市民たちが供養のために川にとうろうを流したのが広島の「とうろう流し」の始まりと言わる。最近は、とうろうに平和へのメッセージを書いたりしている。広島の「とうろう流し」は「供養」と「平和への願い」の両方の意味を持つものだという事を知った。空が暗くなった時の「とうろう流し」を見てみたかったが、夜行バスの関係で夕食やお土産を買う時間を考えると、明るい時間にとうろうが流れている光景しか見ることができなかった。もし、機会があれば空が暗い時間にとうろうが流れているところを見に行こうと思った。
今回で広島へ行った時の記事の掲載を終わりますが、新聞には、載せきれなかった写真があるので学校のHPにある沖縄平和学習のページで写真を掲載します。





「過ちは二度と繰り返しませぬから」~原子力を考える特別な夏~
8月6日・9日、原爆の日を、15日終戦の日を迎えました。この日は66年間変わらず訪れますが、今年だけはある意味特別でした。
日本は3月11日の大震災以降、原子爆弾によるものでこそありませんが、原子力発電所から流れ出る放射能と闘っています。核を「平和利用」という名目で利用してきた政府は、原発周辺を住めない土地へと変えてしまいました。放射能や原子力の脅威を知っていながら、日本政府は原子力発電を国家のエネルギー政策の中枢に据えたのです。
「安らかに眠ってください。過ちは二度と繰返しませぬから」
これは、広島市平和記念公園内に置かれる原爆死没者慰霊碑に刻まれている文言です。原爆投下という悲劇のあと、「核との決別」を世界中の誰もが決意したはずです。しかし、その核が政府主導で、「安全神話」によって、日本全国次々と利用された現実からは決して目をそむけることはできません。
戦争を経験された方の高齢化は年を追うごとに深刻化しています。私たちがそうした方々から直接お話しを聞ける機会は年々少なくなってしまうかもしれません。もし、これから先の遠い将来、戦争の悲劇を知る者が少なくなれば人は戦争を繰り返すのでしょうか。「過ち」を繰り返すのでしょうか。
「安らかに眠ってください。過ちは二度と繰返しませぬから」
特別な終戦の日、原爆の日を迎えた今年、この言葉の意味をもう一度思い起こす必要があるように思えてなりません。
8月1日から8月7日までハイワイ・美術部の合宿で66年前に一つの爆弾によって街が破壊された都市、広島へ行ってきた。今回、車中2泊だったために実質、8月2日から広島の原爆の日である8月6日まで広島に滞在してきた。
広島では平和記念公園や世界平和記念聖堂、爆心地、呉、尾道などを訪ねた。
1日目(8月2日)はまず、世界平和記念聖堂へ。この地にはもともと、明治時代に建てられた古い和風の教会があった。1945年8月6日の8時15分に原子爆弾によって焼失してしまった。その時、直接被爆したドイツ人司祭で、1948年に日本に帰化した愛宮(えのみや)真備(まきび)がこの地に原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を祈念するための聖堂をあらたに建設することを思い立った。この聖堂は、日本人が入りやすいように寺社の建築方法が取り入れられ、世界各地の平和を願う人々、都市によって寄付などによって建てられた。この聖堂へ行き、世界には平和を願っている人が大勢いるのになぜ世界では戦争や紛争が絶えず起こってしまうのかと感じた。
その後、爆心地と原爆ドーム、平和記念資料館へ。爆心地である嶋病院は、原爆が落とされた後も、原爆が落とされる前と同じ場所で今でも診療を行っている。
爆心地を訪れた後に、負の世界遺産である原爆ドームと平和記念公園、平和記念資料館へ。戦前、平和記念公園の一帯は繁華街であった。戦後になり、平和を願うための公園に。もし、広島に原爆が落とされていなければ、平和記念公園一帯は今でも繁華街だったのだろう。平和記念資料館に行き、資料館の人が「66年前の広島と今の福島は似ていて、航空写真をよく見るとわかる。」と言われていた。もっと詳しい話を聞くと、広島は8月6日8時15分に原爆が落とされ、同じ年の9月に台風情報が全くない状態で2つの台風により、原爆が落ち生きのびることができた方の中にも台風によって亡くなられた方がいたそうです。また、風や雨によって瓦礫が流されてしまったようだ。1945年9月に広島に2つの台風が上陸していたという事は知らなかったので新しいことを知るいい機会だった。
2日目(8月3日)は陸軍の地下通信室があった広島城へ。陸軍の地下通信室では、学徒動員で女学生が働かされていた。1945年8月6日に女学生がここから福山(広島県)と小倉(福岡県)に向けて、広島が壊滅を通信した。まだ、その地下通信室は残されているが残念ながら中には入れない。興味がある人は「旧・中国軍管区地下通信室」とインターネットで調べると内部の写真が掲載されているサイトがあったので見てみるといいのではないでしょうか。
広島城を後にして、被爆電車が保存されている場所へ。この被爆電車は1942年に製造され、1945年8月6日に被爆した。その後、修復され、2006年まで広島市内を走り続けた。今でも、広島市内で走っているので乗れるチャンスもある。広島の路面電車は原爆が落とされた2日後には部分的に運転を再開させた。町が壊滅的な状態で市民の足である路面電車が運転を再開した時の広島市民はどれほどうれしかったのかは想像ができなかった。
被爆電車を見学後、車窓から瀬戸内海の海を見ながら呉へ。呉は沖縄海上特攻作戦の為に沖縄に向かっている途中、鹿児島県坊ノ岬沖で米軍の攻撃によって沈没した戦艦「大和」が製造された地。呉駅から徒歩5分のところにある大和ミュージアムを見学。大和ミュージアムには、戦艦大和の1/10の模型がある、1/10の模型でさえもとても大きい。実物はどれほど大きかったのであろう。戦艦大和は当時の日本の最高技術が結集され、技術・効率的な生産管理は戦後の日本工業の礎となった。ミュージアムには戦艦大和の事だけではなく、軍港として栄えている呉の歴史についても展示されていた。向かいには、海上自衛隊の資料館もあり呉に行く機会があれば行くことをお勧めします。
続く。




6月1日(水)の午前中に松原先生と沖縄委員(五藤、小林、福田、古川)で住吉にある東京大空襲・戦災資料センターに行ってきました。4月20日(水)に東京大空襲の経験から戦争について語っていただいた二瓶治代さんに東京大空襲・戦災資料館を案内してもらいました。
6月23日(木)、沖縄は慰霊の日を迎えました。私たちは、広島や長崎に原爆が落とされた日のこと、そしてそれによって多くの命が失われたことは常識として知っていますが、沖縄慰霊の日についてはあまり意識してこなかったのではないでしょうか。沖縄県民の四人に一人が亡くなったといわれる激しい地上戦が終わった日のこと、尊い犠牲の上に成り立つ今日の平和というものを決して忘れてはならないと思います。
さて、世間では原発問題で揺れています。考えさせられることが沢山あります。特に沖縄委員長をやらせて頂いている以上、沖縄の問題との類似点を指摘しないわけにはいきません。原子力発電所というある意味、迷惑な施設を地方に押し付け都市を守り、中央の住民が恩恵を得るという構図は、沖縄の基地問題と良く似ています。スリーマイル・チェルノブイリの原発事故が起こり、日本国内の原発への反感意識が強くなった時、原発用地の新規取得が困難になったため、新たな原子炉は既存の原発敷地に造られました。福島第一原発の敷地に原子炉が6基も集中したのはそのためです。国の75%の米軍基地が沖縄に押し付けられている事情とよく似ています。
震災と原発事故から4カ月以上が経ちました。それ以降、私たちは被災者の痛みを自分自身の問題として捉え、色々な形で協力していると思います。被災地にボランティアに行った友達もいます。生徒会の中で募金活動をしましたが、多くの生徒が協力をしてくれました。今、多くの人が節電をしていると思います。日本全国民が一つになって、被災地を思い原発問題を考えることが必要不可欠なように、今沖縄の人々が直面している傷を、沖縄以外に生きる私たちが自らの問題として捉えることが物凄く重要なことだと思います。
滝野さんは、福島第一原子力発電所の警戒区域に行かれた時の事や、沖縄の基地問題についてのお話をしました。米軍では飛行機の離着陸ルートの真下には小学校などの教育施設を作ってはいけないという決まりがあり、韓国や他の国では米軍はこの決まりを守っているが、沖縄ではこの決まりを守っていないという事を知りました。
≪滝野隆浩さんの講演会を聞いて書いてもらった感想を紹介します≫
福島県の原発危険区域では、防護服を2重で着ている。防護服を2重で着たら、とても大変らしい。歩くだけで汗がでてきて、圧迫感が恐怖感に変わっていく。
沖縄の米軍基地は町の中にあるため、飛行場も町の中にある。そのために、米軍の戦闘機が町中を飛んでいてとても危険だ。V字型の滑走路を辺野古の海に作ろうとしている。V字型の滑走路は海側から着陸して、海側に離陸していく何か起こった時に、国はちゃんと責任をとれるかと思った。
今、福島の原発事故も沖縄の問題も現地に行かないと分からない。沖縄に行った時にしっかり、地元の人の言葉をしっかりと聞きたいと思う。
福島の原発事故で今、東京の人達が思っていることは福島の人達が思っている事より軽く、東京の人達はもっと親身になって、自分の事のように思ってほしい。沖縄についても同じだと思う。沖縄は太平洋戦争で唯一、地上戦を強いられて、捨石にされてしまった。沖縄の事を考えると、とても悲しい現実でした。沖縄の人々は本土の事をあまり好きではないと思った。普通ならば、沖縄の人々は怒る。今も、辺野古移設の事では沖縄の綺麗な海に基地を作ることはとてもひどい事だ。だが、一刻も早く、国外に米軍基地を国外に移設してほしいと思った。
福島と沖縄の状況は似ていると思った。それは、福島は原発、沖縄は米軍基地。東京は地方に危険を押し付けている。確かに必要なものだが、なぜ東京にないのか。結局、色々な理由をつけて、押し付けている。地方に住んでいる人は納得していない。現地に行き、実際に考え、感じる事が大切だ。
沖縄で何が起きたかを知るためには、直接その現場に行って地元の人に話を聞くことが大切だ。もし、沖縄の人に「お願いします」と言うのであれば、自分に何ができるのか考えるべきだ。
「沖縄の問題と福島の原発問題は似ている」という話があって、最初は「え?」と思ったが、話を聞いていると何となくわかってきた。自分達がもっている沖縄の問題などは全部、沖縄から離れたところで見聞きしたものばかりなので、沖縄に行って現地の人達の話を聞きたいと思った。


