6月
26
2010

座談会に参加して(AG)

毎日新聞の滝野さんの講演会後、座談会に参加させていただいた。
講演会で滝野さんが話されたことから、なぜ米軍が沖縄移設を反対するのかや、沖縄の人々の声、実際滝野さんが感じたこと等、様々なことが分かった。しかし、その話をふまえながら、基地移設のニュースについて考えると、答が出てこなかったものがある。それは「沖縄から基地をなくす為の新天地は一体どこなのか。また、県外といっている議員の方々が考えていることは何か」ということだ。
講演会後、座談会で思い切って聞いてみた。その答は「どこにもない」だった。実際、移そうとしても場所はどこにもない。ならば、沖縄を放っておくのか? 見捨てるのか? そんなことはできない。しばらくは沖縄の負担軽減を重視していくと言っていた。
しかし、それも限界はある。今、僕達ができることは、しっかりと考えること、自分の気持ちを持つこと、失敗してもただ前に向かって自分の気持ちを出すことだ。沖縄問題はこれからも続くだろう。何ができるのかを見つけていくためにも勉強しなければならない。

6月
25
2010

滝野氏との座談会に出席して(TK)

 16日の水曜日、毎日新聞社滝野隆浩編集委員の御好意により、10名の生徒との座談会が開かれた。そこで、滝野さんが述べてくれた「深イイ」一言を紹介したい。
・「アメリカは日本の核兵器開発のストッパー」
 日本は高い技術力を持っているのにも関わらず、核兵器を持たずに原子力を取り扱っている。それは世界の中でも日本ぐらいである。日本は核兵器を開発する気は全くないのに、中国や韓国等にしてみたら、いつ開発するのか気が気でないらしい。だから、日本にアメリカがストップをかけてくれて、ありがたいと感じているらしい。
・「情報は等価交換によって得るもの」
 やはり新聞記者にとって、情報は命。欲しい情報があったら、それに見合った情報が必要なのだ。だが、もし自分が持っている情報が少なかったら、自分を高めていかなくてはならない。やはり交渉には隠し球が重要となる。国際関係の交渉事では、核兵器が隠し球として最適だが、そんなことでは当分核はなくならないだろう。
 他にも「深イイ」一言は多々あった。その中でとりわけ「深イイ」と思ったのが、「平和は奇跡の時間」である。そのわけは、今までの「平和」という言葉のとらえ方が「かけがえのないもの」、「大切なもの」等、ありふれた言葉でしか表現されなかったからだ。しかし、滝野さんは違った。こうおっしゃっていた。人類は第二次世界大戦だけでなく、長い歴史の中で争いを繰り返してきた。平和は、全世界の歴史の中で一度あるか、ないかぐらいに大変珍しいものなのだ。
独自の視点で「平和」を観察して表現したことが、自分に「深イイ」と思わせた。ユニークな観察力と表現力があってこそ、読者をうならせる記事が書けるのだろうと考えさせられた。

6月
25
2010

6月23日は沖縄慰霊の日

6月23日のホームルームで、沖縄戦について学びました。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子 著/朝日出版社)では、日本のエリートが戦争を選んだ背景が描かれています。ただ、犠牲になるのは一般の民衆です。あの戦争があったからこその現在の基地問題です。様々なことを考えさせられる日でした。
今後3日間、先日の滝野氏との座談会に出席した生徒の文章を掲載します。

6月
18
2010

沖縄基地問題講義

6月16日(水)のホームルームで、毎日新聞社編集委員の滝野隆浩先生をお迎えして、沖縄基地問題についての講義がありました。
地図の中心を変えて世界を見なければならないことや沖縄の歴史、米軍についてなどを話していただきました。
その後、ご好意により座談会を開いていただきましたが、そこでも高校生なりの率直で白熱した議論が展開されました。現在、座談会に出席して考えることを数名の生徒に作文させています。来週にはアップできると思います。
来週のホームルーム(6月23日)は、沖縄戦について学びます。沖縄慰霊の日ですから。

6月
14
2010

伊江島と辺野古

今回の下見は今の沖縄を肌で感じとれました。ちょうど、私達が下見に行った時には「基地移設反対」の運動が盛んな時期で、町のいたる所に「基地移設反対」の横断幕で下げられていました。また、ホテルで沖縄の基地問題のニュースを見ている時にも「あっ今、ここにいるんだ……」と、とても身近な感じがしました。
今回、私が一番、印象に残ったものは伊江島での基地問題の話でした。下見に行くまでにある程度のことは調べて行ったのですが、実際はもっと色々な問題がありとても今の沖縄に痛感しました。
そして、辺野古にも行きました。辺野古は本当に綺麗な場所で「こんな綺麗な所に基地を作っていいのか……」ととても思いました。辺野古にはバリ    ケードが張ってあって、全国から反対の寄せ書きが結び付けられていました。      今回の下見のことを先日、皆の前で発表もしました。
 10月まで後、4か月しかないですか、今回の経験を基に積極的に沖縄委員として活動をしていきたいと思います。

6月
10
2010

写真

これまでの写真がうまく公開されません。ただ、写真の箇所をクリックしていただければ、見ることができます。よろしくお願いします。

6月
10
2010

伊江島・辺野古

私は今まで沖縄で起こった事、現在行われている事を全て知ったつもりでいた。しかし、現地へ下見に行って考えが変わった。今現在の観光地としての沖縄。しかしその街の中には米軍基地があり、住民の頭すれすれの所をヘリや戦闘機が飛び立っていく。本当に命の危険ととなり合わせで住民達は生きていた。
もともと沖縄の基地は第二次世界大戦時に硫黄島、台湾、そして沖縄からなる連合軍の本土への侵攻を食い止めるべく構想された最終防衛ラインであった。これらの島々はことごとく要塞化され、住民達は本土等への疎開を余儀なくされたが、沖縄から長崎へ学童を大勢乗せた商船「対馬丸」が米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、多数の犠牲者を出すような事件がこの他にも様々な海域で頻発し、なかなか疎開輸送作業が上手くいかなかった。このような事件の多発から住民から疎開の拒否の申し入れもあったという。これが後に住民を巻き込んだ凄惨な沖縄戦になってしまったのだ。そして沖縄戦が終結し、米軍が日本軍の要塞化した施設や飛行場をそのまま使うこととなり、現在にいたっている。という事は、沖縄は今も住民が安心して日常生活を送れないような立派な要塞島ということになる。
私は現地の方に直接お話しを伺って、本当に沖縄から基地を廃絶してほしいという願いを強く感じ取った。つい先日、鳩山首相が沖縄普天間基地移設を断念し辞職した。しかし、だからといって沖縄の基地問題が終結した訳ではない。現に未だ基地は存在しているだ。日本から米軍基地が無くなるその日まで、我々日本国国民はこの問題に決して目を背けず、立ち向かっていかなくてはならない。

5月
26
2010

命どぅ宝の家

この写真に写っているのは2つ。ひとつはカメラを片手に、モノを持っている自分の手。もう1つはこの鉄片であるが、この鉄は元はといえば米軍の残していった鉄砲玉の弾丸である。見ての通りだが自分の手よりも大きい……。ただでさえ自分の手は小さいけれど、それでも一般人の手の付け根から指先程度の大きさはある。
この弾丸。元々は島にある米軍関係施設の使用物である。米軍基地の半数以上が沖縄にある。現在、県民が基地に大反対をしているが、内心では基地利用者によって利益をもたらされている地域もあり、移転で基地がなくなることによって収益を失ってしまうことを危惧している一面もあると言われている。
今回、自分たちはこの写真を撮った『命どぅ宝の家』というところで基地反対派の1人と対談する機会を得た。「人を殺すための施設なんて日本にはいらない」、「基地なんてないほうが平和のため」というのが話の一部だが、これだけ聞けば「基地をなくせば防衛できない。」、「沖縄の歴史は他国から攻められた歴史じゃないのか?」といった意見が飛び交うのは当然である。地球上には少数ながら防衛施設がなく、戦争と関わりのない国も存在するらしい。しかし、それは本当に少数だし、大国と化した日本にそんなことができるとは到底思えない。
答えは存在しないし、意見に反論するのも大事。語り手は最後、反論する自分たちにこう言い残す。確かに先ほどの話はあくまでも理想である。今の世の中なら絶対実現しない話である。だが、忘れてはならない。実現しないのは今だけ。今後の未来なんて分からない。だからこそ……。戦争の語り手が次々と世の中から消えていく中、次を生きる自分たちには戦争経験者の理想に近い形でその思いを託されている。自分たちに今後できるのは、後に生まれてくる自分たちの子孫へ平和を受け継いでいくことである。だから、この話を聞いた後に思った。自分たちはそれを理想で終わらせないための努力をしなければならない。そんな使命感にも駆られる『命どぅ宝の家』だった。

5月
22
2010

伊江島③ 命どぅ宝の家

伊江島で基地問題に対して生涯を通して戦い続けた阿波根さん。阿波根さんは、資料をたくさん集めてこの「命どぅ宝の家」を建てた。米軍が演習場の外に落とした弾丸などがたくさん展示されている。

5月
22
2010

伊江島② 公益質屋跡

大砲や弾丸によって今にも崩れ落ちそうになってしまった公益質屋。なんとも不気味な雰囲気だ。セメントで補強されているが、至る所に弾痕が残っていて、嫌でも戦争を思い知らされる。