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校長プロフィール

  • 角田 秀明(つのだ ひであき)
    埼玉大学教育学部(中学校課程)卒業後に1974年より聖学院中学校・高等学校の英語科に勤務。一時休職し、米国ワシントンD.C. ジョージタウン大学大学院応用言語学修士課程に入学、同大学院修士課程修了後は聖学院に復職。以来、高等部長を16年間、副校長を3年間務め、2016年3月に41年間在職した本学院を退職。その後は学校法人聖学院の理事を務め、2017年4月より第12代校長として着任。

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  1. 2019.07.11

    「どんなことにも感謝しなさい。」

    7月8日から中学1年生の保護者面談をスタートしました。一学期を終えようとしている時期に生徒や保護者の方々がどんなことを考え、どんなことに困難を感じているかを伺い、学校としてサポートできることがあれば対応してしきたいというのがこの面談の目的です。希望される方から申し出をいただきスケジュール化して始めています。在籍149名のうち、希望者が61名です。感謝です。
    面談は30分の短い時間ですが、校長室で身近にお話しできるこの時間はとても新鮮で貴重なひと時です。一人ひとりの生徒が楽しんで学校生活を送っていることを伺うと保護者と一緒に喜んでいます。今、6年間の学院生活を始めたばかりの生徒が卒業するときにはどんな気持ちで卒業してくれるか、楽しみでもあり学校として生徒一人一人の成長をサポートする責任を感じます。満足してこの3月に卒業した生徒の言葉を紹介します。
    「私は、4人兄妹の3番目に生まれ、幼稚園から今日までほぼ毎日お弁当を作ってくれた母、家族を養い、金銭面で苦労させなかった父、革靴を毎日磨いてくれた祖母、送り迎えをしてくれた祖父、学校で悪さをした時に沢山叱ってくれた先生方、私と出会ってくれた友達、そして、全てに感謝である。最後に、私が伝えたい事は、人は他人の協力なしでは生きていけない。だから、感謝を忘れず、様々な人とこれから出会う時間を大切にすることである。私が聖学院で過ごした時間は、一生の財産になるだろう。これからも迷惑をかけるかもしれないが、Only One for Others を胸に堂々と人生を楽しみ生きていきたいと思う。」
    「どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章18節)

  2. 2019.06.27

    「6.23 命どぅ宝の日」に思う

    沖縄では6月23日を「命どぅ宝の日」として平和を祈念する日としています。
    太平洋戦争末期の「沖縄戦」では住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられました。昭和20年(1945年)3月下旬に始まり、6月23日に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出したばかりか、そのうち沖縄住民の死者は何と9万4000人にのぼったのです。この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に次々と動員され、多くの命が奪われました。
    1991年に始まった本校高校2年生の沖縄平和学習も今年で29回目を迎えます。現在はご高齢になって直接伺えないのですが、5,6年前まで毎年生徒が伺ったのが、「ひめゆり学徒隊」の生き証人であられる宮良ルリさん(1926年生まれ)の証言でした。宮良さんは、「ひめゆり平和祈念資料館証言員」として、ご自身の長い沈黙を破って1989年から自らの戦争体験を語るようになりました。毎年百数十回の講演を引き受け、声が出る限り「命どぅ宝」(命こそ宝)というメッセージを伝え続けて下さいました。軍国主義教育に人生をもてあそばれ、「戦争のない時代に生きたかった」と最期の言葉を残して死んでいった多くの友を、彼女は忘れることはできないのです。戦争のためにどれほどの尊い血と涙が流されたか、これからの日本を担う高校生に、心の底から、あたかも懇願するかのように問いかけて下さいました。「二度と戦争をしてはいけません。この命のバトンをお渡しします。受け取ってくれますか?」

  3. 2019.06.12

    主体的に学ぶ「意欲」は賜物(タラントン)

    天候に恵まれて中学、高校の体育祭が無事終わりました。高校体育祭のテーマは「One for all, All for one ~記憶にも残る青春の1ページを~」でした。
    学校教育において「行事は人を育てる」とよく言われますが、同一の経験をしても主体的に関わる人とそうでない人の体験は異なってしまいます。
    体育祭が終わって校長室に生徒会長や体育祭委員の方々7名がわざわざ挨拶に来てくれました。皆の顔には大きなことをやり遂げた充実感があふれていました。彼らは見えないところでプログラムの作成やその他の準備、当日の運営、そして皆が活躍できる場の設定に率先して働いてくれました。体育祭という行事に主体的に取り組み、最後までやり遂げた彼らにはこのことが貴重な体験として彼らの「経験の束」に加えられたことでしょう。
    聖書の中にタラントン(賜物)のお話があります。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで自分の財産を預けた。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン。
    5タラントン、2タラントン預かった僕は出て行って預かったものを活用して結果その倍を儲けた。主人は帰ってきたとき、それらの僕に対して同じことばで労いました。「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイによる福音書 25章21節)
    先の生徒たちはこの5タラントン、2タラントンを預かった僕になぞらえることができると思いました。ところで、1タラントン預かった僕はどうなったのでしょうか?お知りになりたい方はぜひ、聖書のマタイによる福音書25章をお読み下さい。

  4. 2019.05.27

    目に見えないものに目を注ぐ

    北海道を始め全国で、5月としては異例の真夏日の暑さが続いています。暑さに慣れていない時期の真夏の暑さになり、今週の30日(木)、31日(金)に予定されている中学、高校それぞれの体育祭の暑さ対策に注意を払わなければと考えています。
    暑さと言えば、昨年は、連日の猛暑に見舞われ、グランドや体育館の昼間の運動制限をせざるを得ませんでしたが、本校では熱中症予防対策の一環として5月の9連休中に体育館の冷房設置工事を行い、生徒が運動しやすい環境を整えることができました。これが生徒の熱中症を防ぐ一助となればと願っています。
    先々週からの2週間の間に中間考査や糸魚川農村学習、ソーシャルデザインキャンプなどの体験プログラム全てが無事終了しました。二日前の土曜日にお会いした保護者が興奮気味に、「息子が糸魚川農村体験のホームスティが殊の外楽しく、もう一度お世話になったご家庭に行きたいと申し出たので、先方のご家庭にもご依頼し、早速この夏の家族旅行の行き先がもう決まりました。」と話して下さいました。今回で34年続けてこられた糸魚川の体験プログラムの中で、目には見えない人と人との絆が結ばれていることを神に感謝したいと思います。
    「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」( 新約聖書 コリント人の信徒への手紙 二  4章 18節)

  5. 2019.05.10

    「わたしは道であり、真理であり、命である。」

    9連休が明けて再び生徒・教職員が元気に学院に集まってきました。全校礼拝をもって一日を始める生活リズムも新中学一年生に身についてきています。今月は来週から中間考査、中3糸魚川農村体験学習、高Ⅰソーシャルデザインキャンプ、中学(30日(木))と高校(31日(金))の体育祭が予定されています。生徒・教職員・各ご家庭にとって、楽しみと緊張が同居する月になりますね。
    今朝の礼拝では、十字架に架かられる前日にイエス・キリストが弟子たちに語り遺した大切な言葉を学びました。
    「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書14章6節)
    「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」と日本の和歌にありますが、古来、日本人は、宗教を山登りにたとえて、たとえどのような道から登り始めたとしても、みな、行き着くところは同じではないかと考えるところがあります。そして、そのような「道」とは、つまり、自分の力で登っていける「道」であるわけです。どんなに険しい道に見えようとも、その「道」を登ったならば、人間的な完成が待っているかのような道。人の力や正しさというものを期待する「道」であります。
    しかし、イエス・キリストは、そのような、自分の力に期待する人々への道を説いたのではなくて、自分自身に絶望し、罪に嘆き悲しむ人々が、父なる神のもとにいくための「道」そのものになってくださったのです。これが福音であります。

  6. 2019.04.22

    イエス・キリストの十字架と復活に思う

    イースターおめでとうございます。昨日4月21日は日本を含めて全世界でイースターがお祝いされました。イースター(復活祭)は十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に死からよみがえられたことを記念しお祝いする、キリスト教においてはクリスマス以上に重要なお祭りと言えます。
    イエス・キリストの使徒パウロはコリント信徒への手紙一の15章で福音の核心部分について3つのことを述べています。

    1. キリストが私たちの罪のために死んだこと
    2. 三日目に復活したこと(蘇生、生き返ったことではない)
    3. 弟子たちの前に現れたこと

    「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:24,25)。

    聖書によると、キリストは私たちの罪のために死なれました。その死において、私たちの罪に対する完全で十分なさばきを受けてくださったがゆえに、神はキリストをよみがえらせてくださったのです。もし、キリストの復活がなかったならば、私たちの罪は赦されず、まだ罪の中にいることになります。そうであれば、罪が赦されているという保証は何もないことになります。
    さらに、復活されたイエスは12人の弟子や、イエスに従った女たち、また、500人以上もの人々に同時に現れたのです。目撃証人がこのように多数存在した歴史的事実でしたので誰もそれを否定することができなかったのです。心から信頼し従ってきたイエスが十字架上で殺され、墓に葬られ、恐れと悲しみに打ちひしがれ立ち上がることもできなかった弟子たちに復活されたイエスが出会って下さったのです。悲しみのどん底にいた彼らは言葉に表せない驚きと喜びに満たされました。もし復活の事実がなかったら恐れと失望に落ち込んでいた弟子たちを再び奮い立たせ、心を喜びで満たすことは到底不可能だったことでしょう。改めて、主イエスの復活の意味を憶え、心から感謝します。

  7. 2019.04.08

    中学校入学式式辞 2019年4月6日

    聖書:詩篇119編9-16節 (特に15,16節)
    「私はあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。
    私はあなたの掟を楽しみとし み言葉を決して忘れません。」

    新入生の皆さん、入学おめでとうございます。先月、卒業式をお祝いしたばかりで、今度は入学式を迎えています。保護者の皆様もおめでとうございます。
    皆さんは、東京都には中学校はいくつぐらいあるか知っていますか? 2018年度4月時点では、国立8、公立616、私立184の計808校ありました。
    皆さんは入学する前に幾度か本校の学校説明会を聞かれて選んでくださったことと思います。これらの808校の中で聖学院中学校を選び、入学試験を突破してめでたく今日入学されたわけです。
    人間の側から見ると、自分と保護者と相談して選び、自分の努力によって合格したと考えられます。一方、神様の側からみると、不思議なことですが、神様が皆さんを選んだのだといっています。
    ヨハネによる福音書15章16節
    「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、其の実が残るようにと・・・・」
    と、神の子イエス様はおっしゃっておられます。
    「今、あなたが生きている場所や空間は実は私が与えている。そして私が与えているあなたという命と私が共にいるのだから、あなたは何も恐れることはない。」
    と、イエス様は一人ひとりに言われます。

    皆さんは、説明会で本校の教育に期待をもって選んでくださったはずですが、ひょっとすると、皆さんの中には自分の選びは果たして正しかったのか、どうか、内心不安が心のどこかにある人がいるかもしれません。そのような方のために先月3月に本校を卒業した卒業生の卒業文集を紹介したいと思います。

    【青春の選択】
    「聖学院に来て正解だった?」と僕は何人かのお友達に尋ねたことがある。ある人は「良かった」と言い、ある人は「んー、微妙」と答えた。同じ学校に通っていても、どう感じるかがそれぞれ違うのは当たり前ではあるが、面白い。お友達の中には、実は聖学院が第一志望ではなかったという人もいる。しかし、その人に同じ質問をしたら、「間違いではなかった」と答えた。
    良かったか悪かったか、正解か間違いか、そんなことは比べようがない、と僕は考えた。6年間この学校に通っていたのだから、他校と比較はできない。だから、「わからない」というのが論理的には正しい答えなのかも知れない。とはいえ、その手の質問に対して「分からない」と答えるのは、いささかナンセンスだ。では、僕だったらどう答えるのか。
    僕は聖学院に入学し、6年間通った。そして、今に至るまで様々な出来事があった。毎日の授業やお友達との交流、サッカー部やみつばちプロジェクトでの活動、体育祭や記念祭などの行事、山や糸魚川や沖縄、豪州や米国への留学など、聖学院の6年間では実に多くの体験をした。それらを通して僕は何を学び、何を得ることができたのか。行事が終わると、それについて述べる作文を幾多も書いてきた。その度にいつも「自分は本当にこれを学んだのか。本当にこれを得たのか。」と自問自答した。真剣に考えるとよくわからなくなるのだが、間違いなくそれらは全てかけがえのない思い出になったし、僕という人間を形成する一部となっている。もしも他の学校に通っていたら、この学びや会得はあったのだろうか。これには自信を持って「無理だ」と言える。
    この学校、この教室、この環境、その連続体の中で、僕は生き、僕という人間は成長してきた。今の僕は、学校が楽しいし、6年間の学校生活が楽しかったとはっきり感じている。それはつまり、「聖学院に来て、正解だった」と堂々と答えられる根拠だと言えるのだろう。先生方やお友達に、心からありがとうをお届けする。」

    本校は1906年の創設以来、人間教育の土台を聖書のみ言葉の真理の上に置き、聖書のみ言葉の光に導かれて今日まで112年の歴史を刻んできています。そして今、113年目の歩みを進めております。皆さんはこの113年目の新しい歴史を刻む一人ひとりになるわけです。ご存知のように、聖書は1000年以上にわたり、西洋のキリスト教文化圏において最も重要な書として読まれてきました。聖書を知らなければ、ヨーロッパがいかなるものか、如何に今日の姿になったのかを理解することはできません。文学、音楽、絵画など、ヨーロッパの巨匠たちが遺した芸術作品も、聖書を知らないようでは、其の真価を享受することはできません。逆に言えば、西洋的価値観が中心となっている現代社会において、聖書を知ることは世界を知ることに繋がっているのです。
    「私は何のために生まれてきたのか? この世は何のために存在するのか? 人はどのように生きるべきなのか? どうして人は苦しまなければならないのか? 人は死んだらどうなるのか?」

    このような人間としての根本的な疑問に対する答えが、聖書には書いてあります。そして、私たちが聖書の中で神が示す答えに出会うとき、そのあまりにも斬新さに驚きを禁じえないでしょう。また、聖書は世界を変える力を持つ書であり、私たち人間を変える力を持つ書です。

    毎朝、この講堂で全校生徒中学1年生から高校3年生まで900名が礼拝を捧げ、聖書の言葉に耳を傾けます。われわれは神の意思を知るようにと、聖書を与えられており、この聖書はわれわれに、日々新たに読むようにと、日々新たに聖書のある箇所を熟慮するようにと求めているのです。
    今日読んでいただいた聖書の言葉の最後に次のように書かれています。
    「わたしはあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。み言葉を決して忘れません。」

    中学高校時代、特に13歳~15歳は人生の種まきの時期です。では、何の種を蒔くのでしょう。幸せの種まきです。しかし、幸せというものは、幸せを願ったら、かえって与えられないものですね。もっと他の事を願ったら、其の報いとして与えられるものです。人間は自分以外の他の人を幸せにしてのみ、自分も初めて幸せになれる。
    人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分、賜物を生涯かけて出し尽くすか否かにあると言われた人がいます。さらに、その天分、賜物を人のために捧げる、Only One for Others の本校の教育理念を生きることが本当の幸せにつながるものと考えています。

    それでは、現実にできることとして、いったい何をしたらよいのか?
    人間が幸せになるには、次の2つのことをやったらよいと思います。
    1. 決心したことを最後までやり遂げる。其のとき自分に与えられている賜物に気づき、その賜物が磨かれ輝くようになる。
    私の先輩で工務店の社長をしていた方がおりますが、彼は中学校の勉強はさっぱりだったけれど、中学を卒業すると大工の見習いになりました。見習いのときは、朝早くから日の暮れるまで、親方から怒鳴られながら失敗を繰り返しながら大工の技術を身につけたのです。数年後に独立して工務店を立ち上げ、やがて数十人の大工を雇い、面倒をみるまでになったのです。自分で立派な大工になろうと決めたことを最後まで貫いて、自分の賜物を他の人のためにつかう幸せに気づいたのです。

    2. 人に対して親切にしてあげる。
    「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いに対してイエス様は「あなたの隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。人間が人間として幸せに生きるための大切なことばが聖書の中に散りばめられています。聖書の言葉は、私たちの心に豊かに蓄えられ、時至って光を放ち、躍動する不思議な力があります。

    皆さんも、人生二度なし、「人間にはただ一度死ぬことと其の後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル書9章27節)との言葉を心に留めて、これからの聖学院の学校生活を実り多き、充実したものに作り上げてもらえると嬉しいです。皆さんの命、存在そのものは神様に喜ばれています。その事実を自分の生きる土台として、親に、家族に、友達に、部活の仲間に、そして、初めて接する人に親切にすることを心がけて一日一日を過ごしてください。そうすれば求めている「幸せ」が報いとして待っていると言えます。
    以上を持ちまして、入学式の式辞といたします。本日はおめでとうございます。

  8. 2019.03.25

    神よりの預かりもの-命

    3月19日に高校三学期終業式と中学卒業式を執り行い、感謝のうちに2018年度を締めくくることができました。卒業は同時に新たなスタートでもあります。二つの式において共通して生徒にお話させていただいたことは、神から与えられ、預かっている私たちの命と賜物についてでした。
    当たり前と思いがちですが、私たちが夜眠っている間も心臓は休むことなく動き続け、血液が体内を循環し体の隅々まで酸素を送り続けてくれたお陰で、私たちは生かされて朝目覚めることができます。つまり、命は自分の力や努力で維持しているのではなく、生かされ肯定されている命を私たちはいただき、一時預かっているのだという人間存在の原点に立ち返り、この原点から過ぎ去った1年間を振り返り、次に、4月から新学年の学院生活が許されるならば、与えられる時間をどのように、何のために使い、預かっている自分の賜物をどのように生かしていくか、また、周りの人との関係をどう築いていくべきかを思い巡らす春休みにしてはどうかと問いかけました。命はそもそも期限付きの預かりものですから、お返しする時が必ず訪れるという厳粛な真理を同時に心に刻んでいなければなりません。生徒への問いかけは、即、自分への問いかけでもあります。
    「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)

  9. 2019.03.08

    信仰・希望・愛の種まき

    お陰様で、3月2日(土)をもって2018年度の毎朝の講堂における全校礼拝をやり遂げることができました。一学期の4月から169回にわたり礼拝が続けられ、聖書のみ言葉の種が蒔かれて参りました。
    聖書の中にイエスが話された「種を蒔く人」のたとえが載っています。これを読むと、神の言葉は豊かな地にたくわえられることを望んで、われわれのところに来ることがわかります。
    神の言葉は道端に落ちることを望んでいないのです。そこでは、悪魔が来て、信じて救われることのないように、言葉を奪い取ってしまうのです。
    神の言葉は石地の上に落ちることを望んでいないのです。そこでは根を張ることができず、「み言葉を聞いて、それを喜んで受け入れ、一度は信じるが、試練が来るとすぐに身を引いてしまう」のです。
    神の言葉は茨の中に落ちることを望んでいないのです。そこでは、「人生の思い煩いや富や快楽にふさがれて」、窒息し、実を結ばなくなるのです。
    全能なる神の永遠の言葉が私の中に宿るということ、種子が地に蒔かれるように私の中に蓄えられるということは何と不思議なことでしょうか。
    神の言葉は心の中にたくわえられるのです。神の言葉の目的は、われわれの心の中で神の言葉自体が躍動するようになることです。神の言葉を聞くということは、神の言葉が深くわれわれのうちに宿るようにすることです。神の言葉について多くのことを知っていても自分のうちに何も「たくわえられ」ていないならば、何にもならないのです。それよりは、少しでもよいから聖書をゆっくりと読んで、それがわれわれのうちに入り込むまで待つほうがよいのです。
    4月からの毎朝の全校礼拝で生徒が聖書の言葉を聞き、心に豊にたくわえて、み言葉がそれぞれの心の中で躍動する体験をさせていただければと願っています。

  10. 2019.02.21

    ライバル-自分を磨くために神様から遣わされた使者

    昨日2月20日、中高全校生徒は戸田市道満グリーンパーク陸上競技場に集合し、荒川彩湖コースで中学生5.2キロ、高校生7キロのクロスカントリーを実施しました。今年は気温が日中20度近くまで上昇するという4月の陽気のなか競技が行われました。生徒は3学期の体育の授業でこの日に備えて校内のランニングコース(1周470メートル)を一回当たり最大5週走りこんできました。
    中学、高校ぞれぞれでスタート時間に差をもうけて出発するのですが、前年度の記録更新や高い順位を狙う生徒はスタートライン近くに集まり、それほどモチベーションの高くない生徒は後ろの方に集まり、スタートの号砲とともに一斉にスタートを切りました。
    高校生の1・2位は昨年と同じ生徒でゴール直前まで競い合い、1位の生徒は23分20秒、僅か数秒差で2位の生徒がゴールしました。驚いたことは二人とも、昨年よりも記録を更新したということです。二人は自他共に認めるライバルであり、互いに刺激し合いながら1年間自己練習を積んでレベルを高めてきたのでしょう。ゴールしてから二人は笑顔で互いに言葉を交わしている姿が印象的でした。
    今回の二人の生徒を見ると、所謂、ライバル、好敵手とは自分を磨くために神様から遣わされる使者のような気がします。互いの存在を通して、目指す目標が心の底からやりがいを感じられるものかどうか、自分から最善のものを引き出し、その過程で自分の成長に力を貸してくれるかどうかを確認させ、遂には互いに高い水準に近づく努力を引き出す役割をしてくれているのですから。
    「人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ」(コヘレトの言葉3章13節)

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