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校長プロフィール

  • 角田 秀明(つのだ ひであき)
    埼玉大学教育学部(中学校課程)卒業後に1974年より聖学院中学校・高等学校の英語科に勤務。一時休職し、米国ワシントンD.C. ジョージタウン大学大学院応用言語学修士課程に入学、同大学院修士課程修了後は聖学院に復職。以来、高等部長を16年間、副校長を3年間務め、2016年3月に41年間在職した本学院を退職。その後は学校法人聖学院の理事を務め、2017年4月より第12代校長として着任。

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  1. 2019.04.22

    イエス・キリストの十字架と復活に思う

    イースターおめでとうございます。昨日4月21日は日本を含めて全世界でイースターがお祝いされました。イースター(復活祭)は十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に死からよみがえられたことを記念しお祝いする、キリスト教においてはクリスマス以上に重要なお祭りと言えます。
    イエス・キリストの使徒パウロはコリント信徒への手紙一の15章で福音の核心部分について3つのことを述べています。

    1. キリストが私たちの罪のために死んだこと
    2. 三日目に復活したこと(蘇生、生き返ったことではない)
    3. 弟子たちの前に現れたこと

    「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:24,25)。

    聖書によると、キリストは私たちの罪のために死なれました。その死において、私たちの罪に対する完全で十分なさばきを受けてくださったがゆえに、神はキリストをよみがえらせてくださったのです。もし、キリストの復活がなかったならば、私たちの罪は赦されず、まだ罪の中にいることになります。そうであれば、罪が赦されているという保証は何もないことになります。
    さらに、復活されたイエスは12人の弟子や、イエスに従った女たち、また、500人以上もの人々に同時に現れたのです。目撃証人がこのように多数存在した歴史的事実でしたので誰もそれを否定することができなかったのです。心から信頼し従ってきたイエスが十字架上で殺され、墓に葬られ、恐れと悲しみに打ちひしがれ立ち上がることもできなかった弟子たちに復活されたイエスが出会って下さったのです。悲しみのどん底にいた彼らは言葉に表せない驚きと喜びに満たされました。もし復活の事実がなかったら恐れと失望に落ち込んでいた弟子たちを再び奮い立たせ、心を喜びで満たすことは到底不可能だったことでしょう。改めて、主イエスの復活の意味を憶え、心から感謝します。

  2. 2019.04.08

    中学校入学式式辞 2019年4月6日

    聖書:詩篇119編9-16節 (特に15,16節)
    「私はあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。
    私はあなたの掟を楽しみとし み言葉を決して忘れません。」

    新入生の皆さん、入学おめでとうございます。先月、卒業式をお祝いしたばかりで、今度は入学式を迎えています。保護者の皆様もおめでとうございます。
    皆さんは、東京都には中学校はいくつぐらいあるか知っていますか? 2018年度4月時点では、国立8、公立616、私立184の計808校ありました。
    皆さんは入学する前に幾度か本校の学校説明会を聞かれて選んでくださったことと思います。これらの808校の中で聖学院中学校を選び、入学試験を突破してめでたく今日入学されたわけです。
    人間の側から見ると、自分と保護者と相談して選び、自分の努力によって合格したと考えられます。一方、神様の側からみると、不思議なことですが、神様が皆さんを選んだのだといっています。
    ヨハネによる福音書15章16節
    「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、其の実が残るようにと・・・・」
    と、神の子イエス様はおっしゃっておられます。
    「今、あなたが生きている場所や空間は実は私が与えている。そして私が与えているあなたという命と私が共にいるのだから、あなたは何も恐れることはない。」
    と、イエス様は一人ひとりに言われます。

    皆さんは、説明会で本校の教育に期待をもって選んでくださったはずですが、ひょっとすると、皆さんの中には自分の選びは果たして正しかったのか、どうか、内心不安が心のどこかにある人がいるかもしれません。そのような方のために先月3月に本校を卒業した卒業生の卒業文集を紹介したいと思います。

    【青春の選択】
    「聖学院に来て正解だった?」と僕は何人かのお友達に尋ねたことがある。ある人は「良かった」と言い、ある人は「んー、微妙」と答えた。同じ学校に通っていても、どう感じるかがそれぞれ違うのは当たり前ではあるが、面白い。お友達の中には、実は聖学院が第一志望ではなかったという人もいる。しかし、その人に同じ質問をしたら、「間違いではなかった」と答えた。
    良かったか悪かったか、正解か間違いか、そんなことは比べようがない、と僕は考えた。6年間この学校に通っていたのだから、他校と比較はできない。だから、「わからない」というのが論理的には正しい答えなのかも知れない。とはいえ、その手の質問に対して「分からない」と答えるのは、いささかナンセンスだ。では、僕だったらどう答えるのか。
    僕は聖学院に入学し、6年間通った。そして、今に至るまで様々な出来事があった。毎日の授業やお友達との交流、サッカー部やみつばちプロジェクトでの活動、体育祭や記念祭などの行事、山や糸魚川や沖縄、豪州や米国への留学など、聖学院の6年間では実に多くの体験をした。それらを通して僕は何を学び、何を得ることができたのか。行事が終わると、それについて述べる作文を幾多も書いてきた。その度にいつも「自分は本当にこれを学んだのか。本当にこれを得たのか。」と自問自答した。真剣に考えるとよくわからなくなるのだが、間違いなくそれらは全てかけがえのない思い出になったし、僕という人間を形成する一部となっている。もしも他の学校に通っていたら、この学びや会得はあったのだろうか。これには自信を持って「無理だ」と言える。
    この学校、この教室、この環境、その連続体の中で、僕は生き、僕という人間は成長してきた。今の僕は、学校が楽しいし、6年間の学校生活が楽しかったとはっきり感じている。それはつまり、「聖学院に来て、正解だった」と堂々と答えられる根拠だと言えるのだろう。先生方やお友達に、心からありがとうをお届けする。」

    本校は1906年の創設以来、人間教育の土台を聖書のみ言葉の真理の上に置き、聖書のみ言葉の光に導かれて今日まで112年の歴史を刻んできています。そして今、113年目の歩みを進めております。皆さんはこの113年目の新しい歴史を刻む一人ひとりになるわけです。ご存知のように、聖書は1000年以上にわたり、西洋のキリスト教文化圏において最も重要な書として読まれてきました。聖書を知らなければ、ヨーロッパがいかなるものか、如何に今日の姿になったのかを理解することはできません。文学、音楽、絵画など、ヨーロッパの巨匠たちが遺した芸術作品も、聖書を知らないようでは、其の真価を享受することはできません。逆に言えば、西洋的価値観が中心となっている現代社会において、聖書を知ることは世界を知ることに繋がっているのです。
    「私は何のために生まれてきたのか? この世は何のために存在するのか? 人はどのように生きるべきなのか? どうして人は苦しまなければならないのか? 人は死んだらどうなるのか?」

    このような人間としての根本的な疑問に対する答えが、聖書には書いてあります。そして、私たちが聖書の中で神が示す答えに出会うとき、そのあまりにも斬新さに驚きを禁じえないでしょう。また、聖書は世界を変える力を持つ書であり、私たち人間を変える力を持つ書です。

    毎朝、この講堂で全校生徒中学1年生から高校3年生まで900名が礼拝を捧げ、聖書の言葉に耳を傾けます。われわれは神の意思を知るようにと、聖書を与えられており、この聖書はわれわれに、日々新たに読むようにと、日々新たに聖書のある箇所を熟慮するようにと求めているのです。
    今日読んでいただいた聖書の言葉の最後に次のように書かれています。
    「わたしはあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。み言葉を決して忘れません。」

    中学高校時代、特に13歳~15歳は人生の種まきの時期です。では、何の種を蒔くのでしょう。幸せの種まきです。しかし、幸せというものは、幸せを願ったら、かえって与えられないものですね。もっと他の事を願ったら、其の報いとして与えられるものです。人間は自分以外の他の人を幸せにしてのみ、自分も初めて幸せになれる。
    人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分、賜物を生涯かけて出し尽くすか否かにあると言われた人がいます。さらに、その天分、賜物を人のために捧げる、Only One for Others の本校の教育理念を生きることが本当の幸せにつながるものと考えています。

    それでは、現実にできることとして、いったい何をしたらよいのか?
    人間が幸せになるには、次の2つのことをやったらよいと思います。
    1. 決心したことを最後までやり遂げる。其のとき自分に与えられている賜物に気づき、その賜物が磨かれ輝くようになる。
    私の先輩で工務店の社長をしていた方がおりますが、彼は中学校の勉強はさっぱりだったけれど、中学を卒業すると大工の見習いになりました。見習いのときは、朝早くから日の暮れるまで、親方から怒鳴られながら失敗を繰り返しながら大工の技術を身につけたのです。数年後に独立して工務店を立ち上げ、やがて数十人の大工を雇い、面倒をみるまでになったのです。自分で立派な大工になろうと決めたことを最後まで貫いて、自分の賜物を他の人のためにつかう幸せに気づいたのです。

    2. 人に対して親切にしてあげる。
    「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いに対してイエス様は「あなたの隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。人間が人間として幸せに生きるための大切なことばが聖書の中に散りばめられています。聖書の言葉は、私たちの心に豊かに蓄えられ、時至って光を放ち、躍動する不思議な力があります。

    皆さんも、人生二度なし、「人間にはただ一度死ぬことと其の後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル書9章27節)との言葉を心に留めて、これからの聖学院の学校生活を実り多き、充実したものに作り上げてもらえると嬉しいです。皆さんの命、存在そのものは神様に喜ばれています。その事実を自分の生きる土台として、親に、家族に、友達に、部活の仲間に、そして、初めて接する人に親切にすることを心がけて一日一日を過ごしてください。そうすれば求めている「幸せ」が報いとして待っていると言えます。
    以上を持ちまして、入学式の式辞といたします。本日はおめでとうございます。

  3. 2019.03.25

    神よりの預かりもの-命

    3月19日に高校三学期終業式と中学卒業式を執り行い、感謝のうちに2018年度を締めくくることができました。卒業は同時に新たなスタートでもあります。二つの式において共通して生徒にお話させていただいたことは、神から与えられ、預かっている私たちの命と賜物についてでした。
    当たり前と思いがちですが、私たちが夜眠っている間も心臓は休むことなく動き続け、血液が体内を循環し体の隅々まで酸素を送り続けてくれたお陰で、私たちは生かされて朝目覚めることができます。つまり、命は自分の力や努力で維持しているのではなく、生かされ肯定されている命を私たちはいただき、一時預かっているのだという人間存在の原点に立ち返り、この原点から過ぎ去った1年間を振り返り、次に、4月から新学年の学院生活が許されるならば、与えられる時間をどのように、何のために使い、預かっている自分の賜物をどのように生かしていくか、また、周りの人との関係をどう築いていくべきかを思い巡らす春休みにしてはどうかと問いかけました。命はそもそも期限付きの預かりものですから、お返しする時が必ず訪れるという厳粛な真理を同時に心に刻んでいなければなりません。生徒への問いかけは、即、自分への問いかけでもあります。
    「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)

  4. 2019.03.08

    信仰・希望・愛の種まき

    お陰様で、3月2日(土)をもって2018年度の毎朝の講堂における全校礼拝をやり遂げることができました。一学期の4月から169回にわたり礼拝が続けられ、聖書のみ言葉の種が蒔かれて参りました。
    聖書の中にイエスが話された「種を蒔く人」のたとえが載っています。これを読むと、神の言葉は豊かな地にたくわえられることを望んで、われわれのところに来ることがわかります。
    神の言葉は道端に落ちることを望んでいないのです。そこでは、悪魔が来て、信じて救われることのないように、言葉を奪い取ってしまうのです。
    神の言葉は石地の上に落ちることを望んでいないのです。そこでは根を張ることができず、「み言葉を聞いて、それを喜んで受け入れ、一度は信じるが、試練が来るとすぐに身を引いてしまう」のです。
    神の言葉は茨の中に落ちることを望んでいないのです。そこでは、「人生の思い煩いや富や快楽にふさがれて」、窒息し、実を結ばなくなるのです。
    全能なる神の永遠の言葉が私の中に宿るということ、種子が地に蒔かれるように私の中に蓄えられるということは何と不思議なことでしょうか。
    神の言葉は心の中にたくわえられるのです。神の言葉の目的は、われわれの心の中で神の言葉自体が躍動するようになることです。神の言葉を聞くということは、神の言葉が深くわれわれのうちに宿るようにすることです。神の言葉について多くのことを知っていても自分のうちに何も「たくわえられ」ていないならば、何にもならないのです。それよりは、少しでもよいから聖書をゆっくりと読んで、それがわれわれのうちに入り込むまで待つほうがよいのです。
    4月からの毎朝の全校礼拝で生徒が聖書の言葉を聞き、心に豊にたくわえて、み言葉がそれぞれの心の中で躍動する体験をさせていただければと願っています。

  5. 2019.02.21

    ライバル-自分を磨くために神様から遣わされた使者

    昨日2月20日、中高全校生徒は戸田市道満グリーンパーク陸上競技場に集合し、荒川彩湖コースで中学生5.2キロ、高校生7キロのクロスカントリーを実施しました。今年は気温が日中20度近くまで上昇するという4月の陽気のなか競技が行われました。生徒は3学期の体育の授業でこの日に備えて校内のランニングコース(1周470メートル)を一回当たり最大5週走りこんできました。
    中学、高校ぞれぞれでスタート時間に差をもうけて出発するのですが、前年度の記録更新や高い順位を狙う生徒はスタートライン近くに集まり、それほどモチベーションの高くない生徒は後ろの方に集まり、スタートの号砲とともに一斉にスタートを切りました。
    高校生の1・2位は昨年と同じ生徒でゴール直前まで競い合い、1位の生徒は23分20秒、僅か数秒差で2位の生徒がゴールしました。驚いたことは二人とも、昨年よりも記録を更新したということです。二人は自他共に認めるライバルであり、互いに刺激し合いながら1年間自己練習を積んでレベルを高めてきたのでしょう。ゴールしてから二人は笑顔で互いに言葉を交わしている姿が印象的でした。
    今回の二人の生徒を見ると、所謂、ライバル、好敵手とは自分を磨くために神様から遣わされる使者のような気がします。互いの存在を通して、目指す目標が心の底からやりがいを感じられるものかどうか、自分から最善のものを引き出し、その過程で自分の成長に力を貸してくれるかどうかを確認させ、遂には互いに高い水準に近づく努力を引き出す役割をしてくれているのですから。
    「人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ」(コヘレトの言葉3章13節)

  6. 2019.02.05

    「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」

    ※表題はローマの信徒への手紙(12章15節)

    昨日をもって2月1日から4日間続いた中学入学試験が無事終了しました。全教職員が一丸となって入学試験に取り組みました。2月1日~2日は午前と午後、3日は午後のみ、4日は午前のみの計6回でした。初日は雪予報や、受験生や教職員のインフルエンザの影響を心配しましたが、全て守られ無事終了することができました。教職員が力と心を合わせて取り組んだ成果と感謝しています。
    一昨日合格発表を見にこられた父子が事務所前で二人とも目に涙を浮かべておりました。お父様も泣いていましたので「合格おめでとうございます。」と声をかけたところ、お父様は涙を拭きながら次のように仰いました。「昨日の1回目は不合格でした。心配のあまり私の顔の半面の神経が麻痺してしまい、このような状態です。でも、今回2回目の試験で息子が合格できました。ありがとうございました。宜しくお願いします。」息子さんも嬉しさと安堵で目に涙が溢れていました。ご家族上げて第一希望の本校の合格を勝ち取れた喜びを抑えることができなかったのですね。息子さんも丁寧に「宜しくお願いします。」と礼儀正しく挨拶をしてくれました。最後は笑顔になった親子に、「こちらこそ選んでくださってありがとうございます。」とお応えしました。この受験生はこれから聖学院でもっと大きく伸びるのだろうな、と思いました。

  7. 2019.01.22

    自分の置かれた場所で咲く

    先週の1月16日(水)、在校生対象に本校卒業生による特別講演会を行いました。今回の講演は第52回卒業の和田恵秀さん(78歳、本名:和田一壮)にお願いしました。この方は、本校を卒業し、俳優座養成所を経て劇団青年座に入団し、7年後に劇団現代を創立されました。そして、現在、俳優・声優・画家・漫画家・歌手・文筆家と幅広い分野で元気に活躍されておられる方です。自分の置かれた場所で精一杯生きておられる姿は生徒のみならず我々教職員にもよいモデルになりました。
    ご自身の描かれた「絵手紙で絵ッセー」という美しい画集を図書館に寄贈してくださいました。その中の一節に次のような言葉がありました。
    「だから必ず花に話しかけながら絵を描いていると必ず花は返事をしてくれる。そんなささやかな自然との触れ合いがどんなに心を癒し和ませてくれることだろう!『人間は、自然から遠ざかるごとに病気に近づく』という名言を残したのは、かの世界的な詩人ゲーテだが、今日本に限らず世界中の人たちに必要なのは、自然観を持ち、花を愛でる心ではないだろうか?花の命も、人の命も、命の重さは皆同じなのだから。」
    神が人にくださった贈り物が自然、それが人を癒し心に安らぎと喜びを与えて下さいます。
    「天は主のもの、地は人への賜物」(詩篇115編16節)

  8. 2019.01.07

    インマヌエルの年・2019を迎えて

    皆様、新年おめでとうございます!2018年を感謝をもって振り返り、その土台の上に2019年の新たな一歩を踏み出せることを感謝します。感謝することによって、私たちは自分の過去との正しい関係を獲得し、感謝することの中で、過ぎ去った過去は、現在にとって実りのあるものとなるのではないでしょうか。聖書のテサロニケの信徒への手紙1の5章18節に次のような聖句があります。「どんなことにも感謝しなさい。」例外がないのです。文字通り「どんなことにも」という視点で物事をみて感謝するお奨めです。
    新年の年賀状では昨年のクリスマスに与えられたインマヌエル(神我らと共にあり)の祝福を祈願させていただきました。恐れることはないのですね。いつもインマヌエルの主が共にいてくださるから。

    幸福に浸っているときも インマヌエル
    無念な思いにうめいているときも インマヌエル
    健康を満喫している時も インマヌエル
    病弱に消沈している時も  インマヌエル
    死の宣告を受けている時も インマヌエル
    四面楚歌・非難攻撃を受けても  インマヌエル
    (戸田伊助)

  9. 2018.12.20

    インマヌエル「神は我々と共におられる」

    神の子イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスを待ち望む待降節第3週目を過ごしています。今やクリスマスは日本中でお祝いされるほどに定着し、楽しい行事の一つとなりました。しかし、一方ではクリスマスの本当の意味が忘れられ、「教会でもクリスマスを祝うのですか?」という耳を疑う質問まで出るという笑い話(?)もあります。
    クリスマス・ツリー、柊(ヒイラギ)、リース(アドベント・クランツ)、樅(モミ)の木、サンタクロース、12月25日、その他、ほとんどのクリスマス関連の風俗は、聖書に根拠を持たないものばかりです。
    聖書に書かれている本当のクリスマスのメッセージは、「インマヌエル」です。「インマヌエル」とは、ヘブライ語で「神は我々と共におられる」という意味です。

    「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を購ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙、4:10)

    更に、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」でした。我々が神と共にいるのではなく、「神は我々と共におられる」のです。神が共にいてくださる。これ以上に心強いことはないですね。

  10. 2018.12.06

    女性は家庭の太陽!

    You are my sunshine という大変有名な英語の歌があります。その中に“You make me happy when skies are gray.”(天気が悪くてもあなたがいれば幸せだ)という歌詞があります。この歌は失恋の歌だそうですが、この歌詞から次のようなことを考えさせられました。
    ある意味、私たちは月のようなもので、もともとは暗く自分で輝くことはできませんが、太陽のような存在(神)が発する光を受けてはじめて夜空に明るく輝くことができる。その輝かせる光を人からもらおうとするとき、私たちは失望する運命にあります。人からの評価や称賛ではなく、自分が神の限りない愛によって愛されている特別な存在であることを知る(信じる)ことが輝ける秘訣だと思います。今日、神を見上げて神の光を十分に受け、あなた自身が明るく輝くことによって、周りの人が幸せにされ、その人がまた周りの人を幸せにしていきます。家族の中では、特に母親は”You are my sunshine”と呼ばれる存在で、家族全員の心を温めて、育んでくれる大切な役割を頂いています。そのような母親は特に「私の目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という神の無条件のラブコールを、毎日聞きながら生きることが必要だと思うのですが。

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