満開の桜が新入生を待っています

4月1日、今桜が満開です。

入学式にはだいぶ散じてしまうでしょうが、準備会には花は総員でお迎えします。学校の設備などすべて生徒諸君のためのものです。

塔にそびえる大時計も、桜も、椎の木も噴水も、図書館も教室も講堂も、食堂もみな生徒諸君のためのものです。一斉に新入生を歓迎しています。
優しい先輩たちも待っています。胸を張って一直線にやって来て下さい。

新中1入学準備会

2月11日(水・祝)の新中1入学準備会に、かわいい6年生がたくさん来てくれました。
重い教科書7キロを持って家路に。これから学ぶものはこの教科書プラスαですがどれくらい多いのか重さでは計れません。

後一か月で桜が咲くでしょう。たくさんの先輩たちを見てきた桜が今年もピカピカの新入生をほほえみながら迎えてくれます。胸ふくらません勢いよく一気に無事に駆け抜けていかれることを祈っています。

願書の受付がスタートしました

中学入試の願書受け付けを開始して3日が過ぎました。

保護者の皆様は緊張気味のお顔でいらっしゃいます。いま、お子さんやご自分たちの人生や、ご家庭のことを一番真剣に考えておられると時だと推察いたします。

お迎えする私たちも緊張しています。老舗の教育現場としては、ご子息を6年かけてじっくりと、人格の熟成を図りたいと思います。目先のことに振り回されずに泰然とした働きを心掛けています。

受験生のみなさも全力で頑張ってください。ふさわしい道が与えられますように。

タイ研修旅行

年末年始はタイにいっておりました。現地も物価が上昇しています。料理なども盛り付けが少なくなったり、肉の量や具などに加減がされていました。ずいぶん円が下がっていて目減り感が強くなりました。

年末はアカ族の村に行きました。高齢の女性が民族衣装で伝統的な歌を披露してくださった。その歌は2500年以上前からのもので、文字を持たない人々が生活のしきたりや、細かな情報を歌にして若い女性に伝えたものです。20数年前そうした歌があるとは聞いて知ってはいたが直接聞くのは初めてであった。女性は小さな声で静かに唄った。取り囲んでいた中年の女性たちはほとんどわからないといった雰囲気であった。昔は一晩中唄い明かしたと聞く。即興の詩も加わるので際限のないものだそうだ。八重山地方のツバラーマによく似ている。

聖学院中高生徒諸君はホイナムグンという山村で一晩過ごしました。前年無かった電気が引かれていました。明るくなると見えなくなるものがある、という経験もすることになります。秋に出される彼らの報告書がそうしたことを綴ってくれるでしょう。

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

受験生のご家庭では、新しい道を見つける引き締まった幕開けをなさったことでしょう。ふさわしい世界がお子さんとご家庭に与えられることを神様にお祈り申し上げます。

風邪など引かないで頑張って下さい。

第108回記念祭-勝利を友(きみ)と

11月3日(月・祝)、第108回記念祭が、エンディングで大きな盛り上がりを見せて終わりました。

毎年のことですが生徒諸君は記念祭で、早めですが一年の締めくくりをします。
特に上級生ほどその傾向が強く、高校生活の総括と新しい出発を期する密度の高い時間にしています。中学生など下級生は手本にします。記念祭は生徒諸君にとっては重要なエポックメイクの機能をしています。だからこそ高校生は燃え、集中します。中学生は弾けます。

ここでためた力を、2月3月高校3年生は一挙に発揮してくれます。
中学生は思い出以上のものを作り残します。

今年のテーマは「勝利を友(きみ)と」でした。

多種多様を認める

10月16日(木)・17日(金)、全国私学の教育研修会が東京で開かれました。
62回目です。

私は生徒支援教育部会に参加しました。全国から120名の参加でした。
障がいなどを持った児童・生徒をどう受けとめるかという基調で進みました。
その中で2校の報告と聴力障がいのお子様を持つ保護者母親の話に心動かされるものがありました。

共通していたことは、心の中をバリアフリーにすれば大半の問題は解決する。
学校の中の段差や階段が問題ではない。教師や生徒の決めつけがバリアになる。
生徒同士が、教師がかかわるより立派に解決した、など目から鱗の感がある報告がなされました。
障がい者とか障がい児と呼ぶのはやめようと保護者がかたりかけられました。

子どもが最もすごしやすい国は移民国オランダだと紹介されました。
つまり多種多様を認めなければ成りたたないお国だからという話は示唆的でした。

思考力セミナー

9月20日(土)思考力セミナーを開きました。受験を来年2月に控えた6年生が対象でした。いよいよ聖学院の入試の真髄にさしかかりました。

4人ずつのグループは真剣そのものの表情でテーマと取り組みました。名刺より少し大きめの木片4枚との格闘でした。檜、松、杉、ミズナラです。手で感触の違いを確かめたり、木には匂いの違いがあることなど発見と思考が続きます。

そして、木と人間生活、地球環境などの問題に発展していきます。真剣な少年たちの姿には輝きがあります。そしてそれは不思議な感動が醸し出される光景です。その少年達がとても凛々しく、頼もしく映り、私は彼らがとても好きになりました。

神の形に似せて人間を作ったと聖書にありますが、こういう姿かなと思いを馳せたりする時間でした。

 

タイ山岳民族-アカ族の文化

山岳地帯に住む人々の文化=生活を見る場合中心部にはアニミズム、世にいう精霊信仰があると言われるが、そこには原始的とか、未開という差別的な意味が潜んでいる。都市住民の喪失した自然観の裏返しだが、精霊信仰は価値が低いもの、あるいは迷信、胡散臭いものと排除され、全く利用価値のないものと受け止められている。
アニミズムをキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教などいわゆる大型宗教と並列して考えるのは無理がある。
生活との密着度を見ると大きな差があるので、宗教というよりは犯しがたい生活のルールだ。社会規範などと突き放したものでもない。
その特徴は、すべてのものには命があるという紛れもない体験と経験から来ている。
命の法則を無視した生活・行動は自分たちの身に不都合なことが起こり、自分たちの命が危険な状態になったという長年の経験がある。
精霊信仰は実際のところ膨大な体系であり生活の隅々まで行き渡っている。
専門的に司る役職者がいなければ保てないほど膨大なので、代々そのルールを暗証する家族がいる。社会内教育の原点がここにある。

アカ族の人や山人の知恵
アニミズムには蔑視的な意味が付加されるが、よくよく見聞きすると本当は決して侮れない深く広い知恵の集積だということが分かる。
呪詛とかまじないと言ったのは低地の人だ。ちょっと見て言ったことらしく、本来はそういう呪術的なことではないと分かる。
山で暮らす人々は生活条件が厳しいので、使う物の性質を徹底的に見極める。
物事の根底にある性質・特性を大事にせず、あるいは無視して用いると後で痛い目にあうことになる。だから無知を大変おそれ警戒する。
自然の中にある知恵を求めるのだが、長い試行錯誤のすえ定まったものがある。それを暗証者は逐一暗唱し膨大な情報を代々伝えて行く。そうして村の生活を自然に反することなく守ってきたのが低地のひとが名付けたアニミズムなのだ。
もっとも興味深かったことは、家に使う材だ。
山から伐りだして来るとき根を谷側に向けて運ぶ。悪い霊がついてこないようにと低地では解釈されるが実際は木中の水分の流れに関係している。
そして何より興味深いのは、山の北側の木は家の北側に使い、南の木は南に向けて使う。宮大工の西岡常一氏も著書の中で、薬師寺の解体、改築の時に、同じように北の物は北に南の物は南に使ってあると書いておられた。
これは厳粛でさえある。

糸魚川の家

新潟県糸魚川市に行ってきました。自分の家のメンテナンスが少々必要になったので久しぶりに行きました。冬季、家の周りは3メートル以上の雪が降り積もります。昨年は雪囲いが不備だったので窓ガラスが2枚割れ、窓枠がへし折られました。

4キロ下流の集落は積雪1メートルどまりです。わずか数十メートルの標高差で降雪量には大きな違いがあります。地域の違いは降雪量だけではなく社会の深層にまでおよびます。

厳冬期は仕事の都合で帰れないので雪の怖さが本当のところわかりません。半年の間、空はどんよりと暗く、しんしんと雪が降る夜があると古老がポツリと言った事がありました。あたりの物音を雪が吸い取ってしまい、雑音を閉じ込めてしまいます。沈黙の世界に覆われて、木々も草花も小動物も冷たい雪の下でじっと息を凝らして耐えて100日、弾ける春を待ちます。

そんなことを考えながら、亡くなった多くの、お世話になった方々に感謝の気持ちを告げながら、おもに杉菜や草を刈ったり、越冬の虫の骸を片付けたりして時を過ごしました。

聖学院の生徒諸君もこの20年で何人もが私の家にやってきました。一気に家が活気をおびて明るくなり、家だけではなく、村中が嬉しそうな楽しそうな表情になりました。

切ないですね、今年度限りで村の学校はその門を閉じてしまい、学校から子どもたちの声が消えてしまいます。聖学院の諸君が農村に少しでも活気をもたらせないかなと考えています。

このあと私は酷暑のシンガポールやタイ、マレーシアに出かけます。そこで日本の子どもたちはどうしているのだろ。糸魚川とはまた違う懸念が走ります。