多種多様を認める

10月16日(木)・17日(金)、全国私学の教育研修会が東京で開かれました。
62回目です。

私は生徒支援教育部会に参加しました。全国から120名の参加でした。
障がいなどを持った児童・生徒をどう受けとめるかという基調で進みました。
その中で2校の報告と聴力障がいのお子様を持つ保護者母親の話に心動かされるものがありました。

共通していたことは、心の中をバリアフリーにすれば大半の問題は解決する。
学校の中の段差や階段が問題ではない。教師や生徒の決めつけがバリアになる。
生徒同士が、教師がかかわるより立派に解決した、など目から鱗の感がある報告がなされました。
障がい者とか障がい児と呼ぶのはやめようと保護者がかたりかけられました。

子どもが最もすごしやすい国は移民国オランダだと紹介されました。
つまり多種多様を認めなければ成りたたないお国だからという話は示唆的でした。

思考力セミナー

9月20日(土)思考力セミナーを開きました。受験を来年2月に控えた6年生が対象でした。いよいよ聖学院の入試の真髄にさしかかりました。

4人ずつのグループは真剣そのものの表情でテーマと取り組みました。名刺より少し大きめの木片4枚との格闘でした。檜、松、杉、ミズナラです。手で感触の違いを確かめたり、木には匂いの違いがあることなど発見と思考が続きます。

そして、木と人間生活、地球環境などの問題に発展していきます。真剣な少年たちの姿には輝きがあります。そしてそれは不思議な感動が醸し出される光景です。その少年達がとても凛々しく、頼もしく映り、私は彼らがとても好きになりました。

神の形に似せて人間を作ったと聖書にありますが、こういう姿かなと思いを馳せたりする時間でした。

 

タイ山岳民族-アカ族の文化

山岳地帯に住む人々の文化=生活を見る場合中心部にはアニミズム、世にいう精霊信仰があると言われるが、そこには原始的とか、未開という差別的な意味が潜んでいる。都市住民の喪失した自然観の裏返しだが、精霊信仰は価値が低いもの、あるいは迷信、胡散臭いものと排除され、全く利用価値のないものと受け止められている。
アニミズムをキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教などいわゆる大型宗教と並列して考えるのは無理がある。
生活との密着度を見ると大きな差があるので、宗教というよりは犯しがたい生活のルールだ。社会規範などと突き放したものでもない。
その特徴は、すべてのものには命があるという紛れもない体験と経験から来ている。
命の法則を無視した生活・行動は自分たちの身に不都合なことが起こり、自分たちの命が危険な状態になったという長年の経験がある。
精霊信仰は実際のところ膨大な体系であり生活の隅々まで行き渡っている。
専門的に司る役職者がいなければ保てないほど膨大なので、代々そのルールを暗証する家族がいる。社会内教育の原点がここにある。

アカ族の人や山人の知恵
アニミズムには蔑視的な意味が付加されるが、よくよく見聞きすると本当は決して侮れない深く広い知恵の集積だということが分かる。
呪詛とかまじないと言ったのは低地の人だ。ちょっと見て言ったことらしく、本来はそういう呪術的なことではないと分かる。
山で暮らす人々は生活条件が厳しいので、使う物の性質を徹底的に見極める。
物事の根底にある性質・特性を大事にせず、あるいは無視して用いると後で痛い目にあうことになる。だから無知を大変おそれ警戒する。
自然の中にある知恵を求めるのだが、長い試行錯誤のすえ定まったものがある。それを暗証者は逐一暗唱し膨大な情報を代々伝えて行く。そうして村の生活を自然に反することなく守ってきたのが低地のひとが名付けたアニミズムなのだ。
もっとも興味深かったことは、家に使う材だ。
山から伐りだして来るとき根を谷側に向けて運ぶ。悪い霊がついてこないようにと低地では解釈されるが実際は木中の水分の流れに関係している。
そして何より興味深いのは、山の北側の木は家の北側に使い、南の木は南に向けて使う。宮大工の西岡常一氏も著書の中で、薬師寺の解体、改築の時に、同じように北の物は北に南の物は南に使ってあると書いておられた。
これは厳粛でさえある。

糸魚川の家

新潟県糸魚川市に行ってきました。自分の家のメンテナンスが少々必要になったので久しぶりに行きました。冬季、家の周りは3メートル以上の雪が降り積もります。昨年は雪囲いが不備だったので窓ガラスが2枚割れ、窓枠がへし折られました。

4キロ下流の集落は積雪1メートルどまりです。わずか数十メートルの標高差で降雪量には大きな違いがあります。地域の違いは降雪量だけではなく社会の深層にまでおよびます。

厳冬期は仕事の都合で帰れないので雪の怖さが本当のところわかりません。半年の間、空はどんよりと暗く、しんしんと雪が降る夜があると古老がポツリと言った事がありました。あたりの物音を雪が吸い取ってしまい、雑音を閉じ込めてしまいます。沈黙の世界に覆われて、木々も草花も小動物も冷たい雪の下でじっと息を凝らして耐えて100日、弾ける春を待ちます。

そんなことを考えながら、亡くなった多くの、お世話になった方々に感謝の気持ちを告げながら、おもに杉菜や草を刈ったり、越冬の虫の骸を片付けたりして時を過ごしました。

聖学院の生徒諸君もこの20年で何人もが私の家にやってきました。一気に家が活気をおびて明るくなり、家だけではなく、村中が嬉しそうな楽しそうな表情になりました。

切ないですね、今年度限りで村の学校はその門を閉じてしまい、学校から子どもたちの声が消えてしまいます。聖学院の諸君が農村に少しでも活気をもたらせないかなと考えています。

このあと私は酷暑のシンガポールやタイ、マレーシアに出かけます。そこで日本の子どもたちはどうしているのだろ。糸魚川とはまた違う懸念が走ります。

「弱い日本人」からさよなら

昨日は終業式でした。
式辞で「なぜ弱い日本人の英語」といった趣旨の話をしました。答えは簡単です、日常的に何かを英語で問われることがないからです。もし、しばしば説明や質問、主張を英語でしなければならなかったら。それを逃げないで取り組んでいたら。その人は「弱い日本人から」さよならしているはずです。
正義とは、米国CIA調査官のマクガバン氏は「不利な子ども、権利を削がれた女性、外国からの寄留者を守るものです」と言いました。世界に影響力のあった米国人です。これは聖書から取られた言葉です。英単語ではorphans, widows, foreigners を守るのが正義ということになります。

こうした概念を英語に訳し、心に蓄えておくと、弱い日本人などと誰からも言われません。日常会話を十分意識しつつ、より基幹にせまる表現を英語で確保していることがどれど大切なことかと話しました。
 

何に命を懸けるのか

日本を取り巻く極東に不穏な雲行きが感じられます。

世界中の親御さんに尋ねたい。お子さんが戦争に行くことをどう思いますか。私たちは、可愛い生徒を見ていて絶対に戦争に行かせたくない、という気持ちを強く持ちます。

親なら尚更です。息子たちが戦地に赴く日の朝を思い浮かべます。戦争によって解決される事などないとわかっていると尚更息子達が不憫になります。行ってらっしゃいなんて決して言えません。

どの戦争も無駄でした。神の国到来に役立ちませんでした。無駄な戦争などに命を懸けるんじゃないよと叫びます。命を懸けるところはほかにあるじゃないか。

ところで、自分がそういうところで命をかけているか省みてみます。意味不明の暗い顔をして生徒を迎え入れていないか。不機嫌な朝を迎えていないか。

いま日本中が不安定な気持ちに落ち込んでいるように思えます。パレスチナでは少年たちの命が散りました。頑張って明日の希望につながる事にコミットしましょう。

はじめの一歩

あまりに多い日本人青少年の劣等感。
あまりに少ない自己肯定感。

これは最近何十年間変っていません。
日本の子どもたちは小学4年生で自分の将来に諦めの気持ちを持つと言われています。
塾に行っても家庭教師をつけても上がらない成績、そもそも成績を良くしようというモチベーションが湧いてこない子供たちがいます。
多くの子どもはそうした傾向があるのではないでしょうか。
自分もそうでした。

自分は大学に入る頃まで「学校」に不満がありました。
他者に試験されるのが嫌でした。

いつ、どこで学ぶことに興味を持つように変わったか。

社会では解答のないことが本当に問題で、どの部署も扱おうとしていない現実があることを知った頃、自己肯定とか自己劣等とか言っている場合ではないと思ったようです。
いくつかの角度から挑戦してみようということになったのです。
これが真面目に人生に立ち向かう第一歩でした。

聖学院中高グランドツアーの体験学習は強い人間力を鍛える第一歩の開始です。

「高校体育祭」

6月11日(水)

先日9日は高校体育祭でした。

雷や雹など悪天候が心配されましたので短縮型で挙行しました。

全部生徒諸君の企画運営で進められました。

プログラムの中で圧巻だったのは運動部対抗リレーでした。
出場チームはサッカー、野球、ラグー、陸上、アメフト、バドミントン、バスケット、探検部といったところですが、天候や時間の関係で残念ながら決勝がなくタイムレースということになりました。
普段鍛えてきた身体能力の総結集のような、世に問うといった感じで本真剣なレースになりました。
トラックがやや狭いのでコーナーがきつく体の大きな選手には、カーブを曲がるには工夫が入り気の毒な感じでした。
しかし、これも毎年のことです。
どのチームもインターハイなどに出ることはできませんが、選手は自分に与えられた肉体の隅々に気を配り鍛えてきました。

後ろ姿は逞しく世間や社会の荒波に立ち向かうぞという気迫に満ち溢れて、見ている自分の胸のあたりがすっきりしました。

中学体育祭

6月5日は中学の体育祭でした。体育祭はもっとも楽しい行事の一つです。

真剣に走る諸君の顔はいつもより輝いています。早く走れる諸君も、ゆっくり一生懸命走る姿もどれも感動ものです。走る姿って美しいものですね。ギリシャのオリンピアで人々に愛されたのも故あることなのだと合点がいきます。人体が一番きれいに見えるのは走る時なのでしょう。

レースの緊張感がさらに趣を添えるのは胸にすっきりしたものを与えてくれます。

中学1年生から見ている諸君が1年1年成長するのはなんとうれしいことでしょう。小学生の面影を残している1年生から、身体に芯が入り始めてくる2年生、3年では実にたくましくなって堂々とグラウンドを駆け抜けるのを見るにつけ教師冥利だと感じます。素敵な仕事です。

中3糸魚川農村体験学習-人の温かさにふれて

糸魚川体験学習が無事終了しました。

糸魚川という名にどんなイメージがありますか?
普段接することのない地名でしょうから思いあたることはないかもしれません。結構重要なところだと思います。
フォッサマグナの日本海側の縁、数少ないジオパークの一つ、ヒスイの産地、おいしい米の生産地、重要な無形文化財がいくつかある都市といった珍しく話題性の多いところです。

中3生徒たちは3泊農家にお世話になります。しみいるような日本人の優しさに接し、人というものの温かみを経験します。植林、田植えの体験をして命との直結も体験します。29年目でした。多くの農家さんのべ1000軒以上にお世話になっています。

生徒諸君には心の宝ものになっています。日本の食糧生産問題、TPP問題などいくつも大きな問題意識を背負って帰ってきます。人生の地下水脈として流れ続けます。